第16回 攻玉社中学校・高等学校

  • 私学として生徒のためにできることはなんでもやる

    目標を掲げて、より質の高い授業を供給していく努力を

    攻玉社中学校・高等学校 校長 菊池 正仁 先生

    「私学マネジメントレビュー」第23号(2007年11月発行)より転載
    1966年に中高6年一貫英才開発教育をスタートさせた攻玉社中学校・高等学校。以来、早くから選抜学級を導入し、他校に類を見ない国際学級の成功など大胆な改革を経て、現在では都内でも進学校として人気が高い。その改革の秘訣、きっかけはいったい何であったのか、菊池正仁校長にお話をうかがった。

    聞き手:株式会社コアネット副社長 小嶋隆

    小嶋 貴校は今や都内でも有数の進学校ですが、戦前は海軍の士官養成校だったこともあり、以前は「バンカラな男子校」というイメージがありましたよね。

    教員の意識改革とほめる教育で学校が変わり始めた

    菊池校長 中高6年一貫教育が始まったのが1966年ですので、転機といえばそこでしょうか。ただ、1期生は18名でした。当時の進学実績は日東駒専万歳で、早稲田・慶応に受かる生徒がいると、他の生徒から宇宙人じゃないのなんて目で見られるような状況でしたからしかたがなかったと思います。
    そうした中で、1968年、第1の黒船というべき、青木先生(第9代校長・青木正栄)が校長に就任しました。青木先生は就任早々、私学の教員というのは何たるものか、経営とはどういうものか、私学人の心得、教育に奉仕する心得などを全教員にレクチャーしたんです。当時の教員は皆、かなりの衝撃を受けたそうです。それから青木先生は「ほめる教育」ということを実践しました。生徒がいじけてきているときに尻を叩いてもダメだよと。それよりもチヤホヤしてやろうじゃないかと。教科別や科目別で表彰するとか、皆勤した生徒の親に賞状を渡すなど、これは「表彰式」という形で現在まで続いています。
    それから1972年に中高一貫の1期生が卒業し、何名かが早稲田・慶応などの難関私大に進学しました。その頃からわずか10数名だった中学入学者が30名、50名、100名と増えていきました。1978年には初めて東大合格者が出たんです。そこから、少しずつ入学者の偏差値も上昇していきました。

    小嶋 青木先生のご登場で、先生方と生徒さん達の意識が変わった結果、大学進学実績が伸び、大学進学実績の向上を受けて、少しずつ良い生徒が集まるようになってきたのですね。当時の広報活動についてはいかがでしたか。認知度も今と比べると低かったように思うのですが。

    何でもできるかどうかが改革の肝だった

    菊池校長 学校や業者が集うような会に行くと『東京・攻玉社』と名札をつけてくれるわけですよ。先生方に挨拶をすると「どちらの会社ですか」って必ず言われたそうです(笑)。まあ、当時はその程度の認知度だったわけです。そういう状況の中で、うちの学校をもっと世間に認知してもらわなくてはということになりまして、中学生の募集をどうすればいいのかと考えました。1970年代当時はまだ塾よりも小学校の先生の力の方が強かったものですから、小学校を全教員が分担して訪問しました。小学校の先生を招いたパーティーなどもずいぶんやったそうです。
    1980年、岡本先生(第11代校長・岡本武男)が校長に就任した頃から、担当の教員が塾を回る方向にシフトしていったんです。とにかく生徒を集めなくてはいけないという意識をもって塾へ行って話をしました。また、中学受験塾に教員を何名か派遣して、授業を担当してもらいました。広報活動の一環ではありましたが、中学受験生が何を学んでいるのか、どんな子達なのかなど、ずいぶんと勉強になりました。さらに教員が駅のホームで、本校生徒の服装指導などもしました。不動前駅、目黒駅、品川駅、横浜駅、夏休みは湘南海岸にも行きましたよ。要するに子どもたちはある意味広報マンだよと。うちの生徒たちが駅でバカなことをやっていれば、皆見ているじゃないかと。

    小嶋 本当にいろいろな事をされていたんですね。私学だから何でもできるという事ですよね。

    菊池校長 その何でもできるということを受け入れられるかどうかが、改革の肝だと思います。岡本先生は本校に来る前は都立のトップ校の校長だったのですが、よくそこを切り替えたと思いますね。

    小嶋 今、岡本校長先生のお話が出ましたが、1980年に就任され、学校として何か変わりましたか。

    菊池校長 岡本先生が赴任してきて最初に言われた言葉が、「男子校だし、進学校なんだから、まず、東大10、早慶100の合格者を出そう」でした。これを校内・校外ともにバーンと打ち出したわけですよ。

    小嶋 ようやく東大に1人合格したばかりの時代にですか。

    菊池校長 そう、当時の先生方はみなびっくりしたそうです。しかし、そうやってスローガンをバーッと口にする、外にも言う。そうすると教員一同もだんだんそうしなきゃいけないのかなって雰囲気になってくるわけですよ。先生方の価値観が大きく変化した第2の転機という事ができますね。

    トップは目標を示しやり方は教員に任せた

    小嶋 岡本先生の校長就任は先生方にとってもかなりの衝撃だったようですね。目標達成に向けての具体的な動きはどのようなものでしたか。

    菊池校長 今までの古い人たちと岡本先生の価値観が全く違ったので、はじめは軋轢がありました。ただ、岡本先生はいろいろな目標を定めましたが、具体的な指示はしなかったんです。ある意味で、任せてしまったんです。つまり旗は高く掲げるけど、道筋を岡本先生がつけてくれたかというとそうではないですね。ですから先生方も反旗を翻しながらもやりたいことはやらせてもらえる環境でした。そういう環境だったから改革できたのかもしれません。

    小嶋 権限委譲をして効果を計る感じですかね。先生方の意識としてもやりたいことはやらせてくれるんだから、仕事のモチベーションとしてこんなこともやってみようか、あんなこともやってみようかという意識が芽生え始めたのでしょうか。

    菊池校長 そうですね。それと岡本先生っていうのは一つ言い出すと聞かないんです。そうとう反対がありましたが、どんなことがあろうと突き進むという感じでした。

    小嶋 目標設定が揺るぎない信念の元にあったわけですね。そして達成するために考えなさいと組織に対して投げかけたということですね。

    菊池校長 岡本先生は人を動かすのが上手いですよ。上手いっていうのは単純にほめるっていうだけじゃないんです。例を挙げますと、反対勢力やいろんなことにぶつかったときに最初の一言っていうのが「俺、辞める」だったそうです。それはもう枕詞みたいなもので。でも辞めるよって言われた方はやっぱりちょっと辞められたら困るなって想いになりますよね。そういう想いになったときに、結局じゃあお前やれよとなる、そういうところが上手いと思いますね。また、やろうとした人にとっては細かいことを言われると嫌ですよね。たとえば男子校らしい行事として現在も行っている「耐久歩行」も岡本先生の発案ですが、岡本先生には「『耐久歩行』をどうやってやるんですか」なんて聞いてもダメなんです。ただ「耐久歩行」にしても何にしても、それを実行し支えてきた人に対して岡本先生はありがとうって感謝していました。担当者に任せる、創業者的な大胆さが先生方にすごく影響を与えたんじゃないかと思います。
    対先生だけじゃなく保護者に対してもその姿勢は変わりませんでしたね。学校の説明会でも、「私はこうじゃなかったら辞める」って言い出すんです。「校長、これから受験しようっていう親御さんに対してなんで辞めるなんて言うんですか」って周囲が慌てました。でもそれは捨て鉢じゃないんです。それくらいの覚悟で言ってるぞっていう訴えなんですよ。ですから逆に保護者にも評判が良かったですね。

    小嶋 中には抵抗勢力的な先生方もいらしたのではと思いますが、その辺りはどうだったんでしょう。賛成派に引っ張られていったような感じでしたか。

    菊池校長 岡本先生の一度言い出すと聞かない性質が抵抗勢力をも凌駕してしまったという形です。何を言われても信念を曲げないので、仕方ないとあきらめてしまったんだと思います。岡本先生の信念がグラグラしていたら、反対派の先生は絶対についてこなかったでしょうね。

    小嶋 岡本先生の改革が「進学目標」「耐久歩行」と挙がりましたが、その他にもありましたでしょうか。

    菊池校長 そうですね。その時代に始めたものとして「合宿特講」があります。
    先生は夏休みが空いてるから、合宿させて講座をやろうじゃないかという岡本先生の発案が発端でした。これには教員から反対の声が上がりましたよ。なんで夏休みにやらなきゃなんないんだってね。

    小嶋 岡本先生にしてみればきちんと子どもたちの面倒を見てほしいという想いの表れだったのでしょうね。通常授業に加えて面倒を見るということは生徒たちのレベルを上げるということで、生徒たちのレベルが上がるということは、先生方もそれに合わせて授業のレベルを上げるために勉強していかなくちゃいけないわけですよね。そういった取組みは何かされていましたか。

    優秀な教員を外から入れることで他の教員が刺激を受けた

    菊池校長 おそらくその時代にも先生方はそれぞれ努力されていたのでしょうが、組織として学習指導の改革に取組んだのは1997年、大野先生(第12代校長・大野武夫)が校長に就任した時からですね。
    この頃になると、学校が明らかに進学校に変わってきていました。そこで大野先生は、進学校でこのまま同じような授業をやっていたんじゃダメだ、もっと生徒が伸びるような授業をしていかなくちゃいけないと考え、都立の教員をやっている人とか、いろんな経験を持った非常に授業に関して力を持っている人を探して、そういう人を学校の中に入れていきました。そういう人たちが一緒になってやっていくことで、刺激を受け他の先生方の意識が変っていったのです。この取組みは大きな柱として今でも残っていますね。
    ただ、全ての教員が質の高い授業を供給できるレベルまでいったかというと、現状ではまだ満足できていませんね。今後、さらに質の高い授業を供給できるような学校を作っていくことが、私が大野先生から引き継いだ大きな仕事の一つだと思います。
    そのためには本校が今までやってきたことを整理して、具体的に何を創っていくのかを検討しなければならない。そしてそれが決まったら組織的に動かしていく事が必要です。本校では組織として動かしていく形が、残念ながらまだ明確にはできていません。個々の人たちは実際には少しずつできてきているのですが、まだそれを組織としてしっかりしたものにできていない。組織を固めていくということが、これからの私の一番大事な仕事だと思っています。

    小嶋 伸びた企業というのは伸びるための努力をする時期、一段階上がる時期というのがあって、前からいる人と新しく入った人との葛藤っていうのはどの企業でも、もちろん学校でも起こりえることだと思います。たとえば最近入られた先生の扱いで何か気をつけていらっしゃることはありますか。

    若い先生は世間の風にあたることで危機感を保つ

    菊池校長 たとえば女子校あたりでも本当に募集に苦労しているところは、校長先生はじめ、外部相談会に皆で来て必死になってやっているわけですよ。外部相談会に行ってそれを見ることにより、他校にはこういう状況もあるんだ、逆にじゃあうちはどうなんだと考えてくれるきっかけになれば一番いいなと思います。うちの中だけにいれば今のところ生徒はたくさん応募してきてくれているし、だから大丈夫じゃないかって思うかもしれない。でもそれでは絶対ダメだと思うんですよ。そういう意味で外を知ってもらうことはとても重要で、「相談会でこう聞かれたらこう答えなさい」なんて指導していくのも実際は大変ですけど、やっぱり体験してほしいですね。
    最近では都立のいろいろな学校が変わってきていますが、こういう動きは私学にとって、ボディブローみたいにだんだん効いてくるんです。正直言って、かかるお金は5倍ですよね。今は1年間で5倍のお金を払ってもうちに来てくれる。今後都立がどんどん伸びて、5分の1のお金で行けて、しかも進学率も結構いいですよとなったら、これはもう皆、都立に行っちゃいますよ。

    小嶋 5倍ものお金を払って悪いところには誰も行かないということですね。新しい先生には世間の風を読ませるというか、現場を通じて先生方のモチベーションを上げていらっしゃるんですね。広報的なこと以外に、何か工夫をされていることはありますか。

    菊池校長 教員には、研修を通じて自らを高めていってほしいと勧めています。特に初任者研修には力を入れています。また他の先生方にも外部の研修には積極的に参加してもらいたいので、希望があれば金額に上限は設けず参加させています。私立の場合は学校によって全然違いますから、他校の先生方と交流して学べるという効果もありますしね。

    時代のニーズに乗った国際学級

    小嶋 お話をうかがっていると、貴校は今後さらなる飛躍をされるのでは、と感じます。現在の特徴的な試みとして、国際学級が挙げられますね。スタートは1990年ですが、始められたきっかけと成功の秘訣はなんだったのでしょうか。

    菊池校長 当時、外務省が外国に行く子どもに対し、日本人学校よりも現地校を推奨していたそうです。でも現地校は英語オンリーで、日本の教育をしていません。それで日本に帰ってきても私学で行くところがないと、知り合いのご父兄の方から相談されたことがきっかけです。
    もう一つはその頃から中学入試の成績による輪切りが明確になってきました。偏差値50はここだよ、攻玉社は52だよってね。そうすると本校には常に50くらいの子しか入ってこないわけです。国際学級の設置は、偏差値の輪切りを解消する手立てにもなるのかなという一面もありました。帰国生は偏差値がわからないので、もしかしたらその中に60の子がいて、入学後伸びるかもしれない、そう思って6年間育ててきました。正直言うと、これが当たったんですよ。帰国生の中には、磨くと光る原石のような子がいるんです。事実、国際学級から毎年、東大に必ず二人は入っています。大学受験にはやっぱり英語ができると有利ですからね。
    それから、国際学級のエネルギーというのを学校全体の中にどうやって入れていくか、相互に助け合うような形がつくれるかどうかが、これからの課題ですね。今でも子どもたちの中にはどうせ頑張っても国際の子にはかなわないと思う子がいる。しかしそう思うなら彼らと同じように英語を勉強すればいい、相互に勉強しあえば伸びるはずだと。

    小嶋 なるほど。時代のニーズと学校のニーズがうまくマッチしたことで、国際学級は成功したのですね。当時帰国生枠を40名設けると言うのも随分思い切ったご決断でしたが、今後もさらなる展開がありそうですね。その他、力を入れられていることはありますか。

    さらなる飛躍に向けて

    菊池校長 さきほどもお話しましたが、大野先生がやられてきた事の継続で、授業の質を大切にしています。生徒がどんどん良くなってきているならそれに対応した授業をしなくてはいけない。いかに質の高い授業をやっていくかということはどの学校にも共通していえる今後の課題ですよね。レベルの高い生徒にはより高い授業、そうでない生徒にもレベル別の授業をしていく。

    小嶋 選抜学級も今では他校でも多く見られますが、貴校では早くから取り入れていますよね。

    菊池校長 選抜学級は1978年にスタートしています。当時としては早いほうですね。体育等を含めた総合的な評価でクラス分けをしていますから、選抜学級以外にも特定の科目に秀でるような優秀な生徒は多くいます。リーダーシップをとれる生徒も多くいるので、クラス運営としてもうまく行っていると思います。
    選抜学級には、成績の良い子を集めてより質の高い授業をする、という意味ももちろんありますが「選択学級に入るためにがんばろう」という他のクラスの生徒を伸ばすという効果もあるんです。
    ただ最近の子どもたちの中には精神的に弱い子もいて、選抜に入れなかったことで不登校になってしまうような子もいないわけじゃない。カウンセラーをおいて、そういう面もフォローしています。入った子よりもダメだった子をいかにフォローするか、来年頑張ればいいじゃないかと上手に指導して元気づけてあげることが大事ですね。

    小嶋 なるほど、その他に力を入れられている事はありますか。

    菊池校長 子どもたちが目標や目的をしっかり持って勉強できるようになってほしい。今、キャリアガイダンスというかたちで、東大のゲノム研究者の上田卓也さんや、シンクロのメダリスト、武田美保さんなど、各界の著名人などを呼んで話をしてもらったりしています。いろいろな人の話を聞いたり、卒業生がどんな仕事をしているかなどを知って、自分はこんな思いで勉強するんだという目的意識を持つことが大事ですね。勉強の仕組みを変えていくのと同時に目的意識をしっかり作るということが必要だと思います。
    また、かつては「補習科」という課外授業も作りました。7年生というか、卒業して予備校に行く替わりにうちに来て勉強をするというコースです。授業料は通常の半額にしました。今はやっていませんが、今後はこれらに続く次の特徴を作っていきたいと思っています。

    小嶋 最後に他の学校へのアドバイスや、本校も含めて今後私学が意識していかなければならないことを教えてください。

    菊池校長 目標は数字だけではなく、管理職の明確な意思として、目指す方向をはっきりと示していかなくてはいけないと思います。はっきりした目標を持っていないと他の先生方が何をしていいかわからないですから。次の大きな波の中でさらなる成長をしたいというメッセージを、先生方に届けていくことが大事です。また、現在改革が進んでいる学校は、新しい先生にはそれまでの流れを必ず話して大変な時代があったことをしっかりと伝えていくことが大切だと思います。本校でも昔は一泊旅行などの時に自分達の教育にかける想いとか情熱をいろいろ語り合える場がありました。それがだんだんなくなってきて、先生同士のコミュニケーションが希薄になってきたような感じがします。今後はもう少し密にしていきたいと思いますね。そういうことは生徒に対しても絶対にプラスになりますから。
    それからもうひとつ、改革が成功するということは生徒の質が変わるということでもあります。今いる生徒、保護者を満足させつつ、さらに学校として進化を遂げるためには、教員の指導、特に授業の質を変えていくということは絶対に必要で、どの学校も避けて通れない道だと思います。あたりまえの話ですが、教員が変わらなければ学校はかわりません。

    小嶋 ありがとうございました。貴校の今後ますますのご発展をお祈りしています。