第20回 穎明館中学・高等学校

  • 全ては生徒の成長のために
    主体を学校から生徒へと転換したことで、学校のさらなる進化が可能となった
    穎明館中学・高等学校 前校長 久保田 宏明 先生
    聞き手:株式会社コアネット副社長 小嶋 隆
    「私学マネジメントレビュー」第27号(2009年9月発行)より転載
    1987年に中学を開校し、今年23年目を迎えた穎明館中学・高等学校。多摩西部地区の決して交通の便が良いとはいえない立地であるが、毎年多くの受験生を集め、偏差値レベルも上がり続けている。生徒たちは勉強一辺倒の生活ではないが、毎年高い大学合格実績を誇っており、2009年度大学入試でも東大に八人が合格した。開校12年目に校長に就任され、次々と新しい施策を打ち出してこられた久保田先生に、受験生の注目を集め続ける理由についてお話をうかがった。

    小嶋貴校は、失礼な言い方かもしれませんが、中学を開校された八王子という地域は東京方面からは遠いうえ、まだ中学受験志向もあまり強くない場所であるにも関わらず、毎年多くの受験生を集められ、高い大学合格実績を出し続けていらっしゃいます。本日はその具体的手法についてお話をうかがえればと思います。まず、開校当初のお話からお聞かせいただけますか。

    久保田前校長本校は東京都中野区にある堀越高等学校と経営を同じくしています。きっかけは、堀越学園の理事長である堀越克明氏が、堀越高等学校のためのグラウンドを探していて、この場所に新しい学校を創るのにも適した、広くて環境抜群の土地を見つけたことでした。この八王子周辺地域はもともと私学よりも公立が優勢だったのですが、1970年代後半から東京のベッドタウンとして人口が増え始め、1983年に帝京大学中学校が、1984年に共立女子第二中学校が、1986年に東京純心女子中学校が開校するなど、私学志向が強まってきた時期でもありましたから、決断に至ったのでしょう。開校にあたり、理事長が目指したのは、「この地域で一番の、男女共学の進学校を創る」ことでした。

    小嶋堀越高等学校と全く違う「穎明館」という校名がつけられたことからも、違うタイプの学校にしたかったことがうかがえますね。「穎明館」という校名にはどのような意味があるのでしょうか。

    久保田前校長理事長の祖父、堀越修一郎が、学制の制定からまもない1877年、青少年読者を対象とした自由投稿の週刊文芸誌「穎才新誌」を創刊し、明治維新後の志気旺盛な若人を啓発することに努めました。同誌の精神を継承し、21世紀のリーダーを育てる学校をつくりたいという想いのもとに「穎」という一字を取って、穎明館という校名をつけました。
    穎明館をEMKというアルファベット三文字で表すこともあるのですが、Experience(経験)、Morality(道徳)、Knowledge(知識)の三つ(E.M.K.)を教育の柱として表現しています。

    小嶋八王子でも私学志向の機運が徐々に広がってきたとはいえ、この場所で進学校を目指すというのは、都内で同様のことを行うよりも大変だと思いますが、貴校の場合は開校後かなり早い段階から実績が出ていますね。

    授業と進学指導に重点を置き、短期間で進学校に

    久保田前校長そうですね。中学の第一期生から東大合格者を出しましたし、その後も順調に実績を伸ばしています。開校後の10年間は、進学校としての基盤づくりに力を入れましたので、このような結果が出たのだと思います。カリキュラムは大学受験対策を第一義として編成され、授業時間数を最大限に確保するため、夏休みの日数なども三週間に短縮され、希望者向けの講習が連日20時近くまで開かれていました。1日5コマの70分授業を導入していた時期もありました。部活動(当時は同好会)も規制され、定期試験で一科目でも基準点に達しなかった生徒は、活動を禁止されていました。
    小嶋かなり思い切ったことをされていたのですね。「進学校にする」という目標のもと、先生方が一丸となって取り組んでいらっしゃったという勢いが伝わってきます。久保田先生が校長に就任されたのは1998年ですから、ちょうど開校後10年経って、ということになりますよね。校長に就任されたきっかけと、当時の様子についてお話しいただけますか。

    久保田前校長穎明館に来る前は、13年間、駒場東邦中学校・高等学校の校長を務めていました。定年退職の年齢になり、教員としても引退しようと思っていたのですが、堀越理事長から本校の校長として来ないかという打診を受けたのです。定年後の計画も立てていましたし、最初は躊躇していたのですが、私よりも年齢が上の理事長に「まだ引退する歳じゃないだろう」と言われまして。そんな話をしていたときに、理事長が、「いやね、穎明館っていうのは僕のものじゃないんだよ。これは公のものなんだから、久保田先生、自由にやってちょうだい。」と言われたんです。もともと本校のことは理事長からも聞いていましたし、短期間で実績を出した学校として面白いとは思っていましたので、この言葉を聞いて、引き受けることに決めました。

    小嶋駒東の場合は、アクセスを考えても、東京からも横浜からも通学しやすい立地ですし、生徒の学力レベルも安定していますよね。実績を出し始めたとはいえ、学校が置かれている状況はかなり違うと思うのですが、穎明館の校長に就任される際にどのようなことをお考えでしたか。

    学校主体から生徒主体へと教育方針を転換

    久保田前校長さきほどもお話ししましたが、私がこちらに来た1998年には、もう進学校としての基盤は出来上がっていました。ですからその上に、今度は学校としての文化を立ち上げるのが私の役割だと思っていました。そして、その文化をつくるためには、生徒(=学習者)を主体としたほうがうまくいくのではないか、と考えていました。
    新しく学校を立ち上げ、その基盤をつくる時には、学校主導でなければうまくいかないと思います。ですから、穎明館開校後の10年間のやり方には一定の必然性があったと思います。部活動や行事などを制限し、授業と進学指導に重点をおいたからこそ、短期間で結果を出せたのですから。ただ、ここからさらに大学合格実績を伸ばすには、学力形成と人格形成を両立させたほうが有効で、そのためには、生徒の自主的な活動を促進したほうが良いと考えていました。

    小嶋主体的に進路を選択し、目標を持って勉強したほうが学力が伸びるという、キャリア教育にもあてはまる考え方ですね。学校主体から生徒主体というのは、かなりの方向転換ですが、学校内部での反対は無かったのでしょうか。

    久保田前校長以前からいる先生方も、外から校長がやってきて何をするつもりだろうかと、最初は警戒をされていたように思います。ですから、私もいきなり全てを変えようとするのではなく、自分の考えを先生方に発信して、その分先生方からもオープンに意見を聞きました。また、できるだけ先生方と個々に話をするように努めました。

    私は、校長室にいるより職員室にいて話しているほうが楽しいんですよ。国語の先生と話すにはやはり国語の要素がないとだめだろうし、数学の先生と話すには数学の要素も若干持っていなければと思い、話題づくりのために勉強もしました。そうやって先生方と話していると、雑談の中で「久保田先生、あのときこうしていればもっと良かったですね」などとアイデアを出してくれるようになるんです。その中から新しい試みが生まれたりもしますし、そういった形で日常的にコミュニケーションを取っていったことで、会議でも自由に意見が出て、いわゆる抵抗勢力、というものは存在しなかったように思います。

    小嶋そうは言っても、次々と新しい施策を打ち出されている貴校ですから、会議の場で自由に意見が出たとしても決定までに時間がかかってしまうようなことは無いのでしょうか。

    久保田前校長それについては、私の中でひとつの判断基準があります。職員会議で新しい提案をした時に、先生方からあまり意見が出ないものは実行に移さないと決めているのです。逆に、たとえ反対意見であっても多く意見が出るものは実行に移します。意見が出るということは先生方が関心を持っているということですから、最終的にはうまくいくことが多いのです。

    小嶋なるほど。面白い考え方ですね。方針転換に関して、学校外部からの反応はいかがでしたか。

    久保田前校長保護者や受験生、塾の方たちに対しては、学校としての方向転換ですから、説明責任はあると思いました。そこで、いろいろな学校改革に着手した1999年度は、4月に全校保護者会を開いて、今後は学力だけでなく、人格形成にもより力を入れていくこと。
    大学進学実績もその結果として向上すること。そのために、生徒主体の教育を行うということを話しました。もともと本校の教育方針として、EMK(経験・道徳・知識)があったのですが、これを「学問無き経験は、経験無き学問に勝る」というイギリスのことわざを関連づけたりしながら、強調していきました。また、同様の話を、学校説明会でも話しましたし、塾訪問の際にも話しました。幸い、大きな反対は無く、期待とともに受け入れてもらうことができました。

    生徒主体という目標のもと次々と改善が行われた

    小嶋反応が早速あり、翌年の中学入試では、1140名もの出願がありましたね。この地において出願が1000を超えるというのはすごいと思います。それだけ受験生の期待も大きかったということですね。この時期はそれまでのやり方を次々と変えていかれた時期だと思いますが、具体的にどのような改革をされたのか、お話しいただけますか。
    久保田前校長まずはじめに、カリキュラムの見直しを行いました。5教科偏重ではなく、調和と均衡、幅広い教養づくりを目的としたものに改めました。高校2年生までは、進路選択にはかかわりなく、5教科7科目を履修しなければならない形にしました。また、広く外国文化に親しむ教養科目の一環として、高1、高2では第2外国語の履修(中・独・仏・西から1つを選択)もあります。
    それに合わせて、授業も1コマ70分で1日5コマだったのを、1コマ50分の6コマにしました。量的には時間の軽減ですが、そのほうが生徒の集中力が続き、効率が良いと思ったからです。このような形で生徒のために良いと思うことはできるだけ早く変えていきました。

    学校生活においては、まず、「定期試験で1科目でも基準点に達しなかった生徒は、部活動禁止」というルールをなくしました。これは単に生徒が赤点を取ってもいいという意味ではないんです。赤点をとったら一律ダメというよりも、担任の先生、教科の先生、クラブの先生と生徒がよく話し合って決めたほうが生徒のためにもなると思ったからです。
    そうしたところ、逆に生徒たちが自分で考えるようになり、赤点を取らなくなってきました。それで、その年初めて野球部が夏の高校野球地区大会で1勝したのです。その時のマネージャーが泣いて喜んでいたのは今でも覚えています。今では部活動の加入率が9割を超え、活動回数にも特に規制はありません。
    私が就任するまでは、学校行事も学校主導で実施され、文化祭も学校が決めた演劇コンクールや合唱コンクールだけでした。しかし、ちょうど生徒から自分たちで文化祭を運営したいという申し出があったので、心配ではありましたが、思い切ってやらせてみることにしたところ、大変多彩で内容豊かなものができるようになりました。

    小嶋「生徒主体」というやり方は、学校主体よりも難しいですよね。ともすれば放任になってしまいますし、時には生徒たちが動き出すのを待ってあげなくてはいけないですから。そのあたり、方針を切り替えた後の数年は先生方も、生徒さんたちもご苦労があったのではと思うのですが、いかがでしょうか。

    久保田前校長確かに我々教員の間では、生徒たちに果たして出来るかなという心配はありました。しかし、「我々は我慢の子だな」と、最初の一年間は口出ししたくなるのをじっと我慢して、生徒のサポートに徹しました。生徒たちも初めは戸惑いがあったでしょうが、次第に理解してくれましたし、自分たち主体でできる。でもそれには責任が伴うということも分かってきたみたいです。よく生徒たちには「生きていく上では、学校のルール、社会のルール、家庭のルールなど色々ある。ただしその中で、法律でダメ、というふうに規制されているのは本当に狭いゾーンで、大半はグレーゾーンだ。そのグレーゾーンの問題で適切な判断が行えるかどうかを決めるのは君たちの知性だとか理性だとか教養だ」と話しています。逆に先生方には「騙されても騙されても、生徒の人格を徹底して尊重していこう」という考え方を伝えています。

    学校は信頼関係で成り立つもの

    小嶋「騙されても騙されても生徒の人格を尊重する」インパクトのある言葉ですね。

    久保田前校長私は、学校は信頼関係で成り立つものだと考えています。先生と生徒に信頼関係が築かれて初めて、お互いの意見に耳を傾けることができるようになるのです。それは、先生同士でも同じことです。私はこの学校の先生方を全面的に信頼していますので、細かいことは言わず、任せています。本校には定期的な職員会議は無いんです。部長会、主任会議、学年会、教科会がそれぞれ開かれていますので、大きな方針変更以外はそこから記録を上げてもらうので十分です。そして、先生方が決断したことについては、全部、私が責任を負うことにしています。もし失敗したとしても、責任は絶対に先生方には負わせません。それが私の役割だと思っていますので。
    その代わり、生徒と同じように、先生方にも主体的に行動していただきたいと思っています。先生一人ひとりが自覚と力量を持っていて欲しい。それには人格を高め、教養を身につけて、生徒たちのために何ができるかということを自分で考えてほしいですね。以前アメリカに教育の視察に行ったときに、ある学校で校長先生が、真っ赤なネクタイをしていました。「赤いネクタイはいいですね」と言ったら、その先生が「今日は雨だからね。これに黒っぽいネクタイをして行ったら、生徒が寂しがるだろうから、今日は赤いネクタイをして来ました」と言ったのを聞いて「なるほどな。そこまで考えているということは素晴らしいことだな」と思いました。そうやって、日々生徒たちのことを考えていれば、何をすべきかはわかってきますし、生徒に仕事の範囲を超えたかかわりができた時に初めて「恩師」になれるのではないでしょうか。やはり、恩師と呼ばれなくては先生になった甲斐がないんじゃないかと思いますので、先生方にはそこを自覚して日々過ごして欲しいと思います。

    小嶋余談になりますけれども、私も日能研に入社してくる20代の社員によく「我々塾屋といえども教師ではなく恩師を目指せ」と言っています。教師というのは「教える」「師」ですよね。極論すれば教えることは誰でもできます。ですが、「恩師」には誰もがなれる訳ではないですね。我々塾はお金を取っているわけですから、そう言ってもらえるようにならなければ駄目だという話をしています。

    久保田前校長お金を払ってもらっているという意味では、私学も同じです。中高を公立に通うのと、私立に通うのとでは、6年間で学費に約6倍の違いがあると言われています。本校の卒業生が、大学に行って、結婚して、それから「ああ、自分は穎明館に入学して良かったんだな」というふうになってもらいたい。それで、先生方とも、「『穎明館なんか行くんじゃなかった。』とは絶対に言わせないという気持ちでやろうよ」という話をしています。

    生徒の成長のために学校も進化し続ける

    小嶋生徒主体の教育に切り替えられてからも貴校では毎年、東大合格者が出ていますし、その他の難関大学への合格者も年々伸びています。中学入試でも毎年1000名近い応募があるわけですが、大学合格実績が高いとはいえ、この地でこれだけの受験生を集めるというのはやはり相当大変なことだと思います。広報活動の工夫などあればお聞かせいただきたいのですが。

    久保田前校長塾訪問等はしていますが、特に戦略的に何かしている、ということはありません。どちらかといえば受験生が自然に集まってきている、という感覚です。あるとすれば、私が校長になってからは毎年何か新しい取り組みをしていて、それを外部にもお知らせしている、ということでしょうか。

    小嶋確かに私も貴校には常に新しい動きがある、そしてそのスピードが速いという感覚を持っています。毎年新しい取り組みをすることによって、先生方も何かしなければという意識にもなってくるでしょうし。マーケットから見れば「あ、穎明館はまたこんなことをやっている、あんなことをやっているんだ」ということで、やはり、進歩しているとか、改善しているという印象を持ちますよね。それが受験生や保護者の方々にも伝わり、人を集めているのかもしれませんね。それは企業もまったく一緒です。社員が柔軟な発想になるためにはどうすれば良いのかという点は、どの企業も常に苦労をしている点だと思うのですけが、何かそこに対して貴校で特別になされていることはありますか。
    久保田前校長企業の場合は、利益を出すために色々な展開が考えられますが、教育の場合は、新しい取り組みをする場合、必ず生徒に還元されるものでなくては駄目なんです。そして、最終的には、生徒の親、家族に、それによって子どもが成長することを喜んでもらわなくては意味が無いと思っています。

    本校の場合は、新しい取り組みは常に生徒が成長できる環境を整える、ということをコンセプトにしています。人格形成という部分では、生徒たちに芸術的感性も伸ばしてもらいたいと思い、2001年に、21世紀記念館という、本格的なホールをつくりました。定期的に、演奏者や劇団を呼んで公演をしてもらっています。学習環境については、理科の実験室を増やし、また、いつでも勉強できるよう、図書館を朝の7時半から夜の19時半まで12時間開放するなどして、学校が知的生活の場としていっそう充実するように配慮しています。この他にも「見えないカリキュラム」と称して、キャリア教育、卒業生も招いての各クラブごとの夏合宿などがあります。生徒の主体的な行動に対応し、その成長をうまくサポートできる仕組みが整ってきました。学校が変化していくには、不易と流行のバランス、これが大事です。木にツタが巻いていっても、それをこうスポッと切断して断面を見ると、木の部分は変わらないわけですよ。ただ周りにはいろいろなツタが巻いていって、全体の印象は変わってきますが。

    小嶋不易と流行のバランス、大切ですよね。学校によっては、不易の部分が大きすぎてそれが学校の変化を妨げている場合があります。貴校の場合、開校後20年という他校に比べれば短い期間ですから、歴史や伝統に引っぱられて身動きが取れないという部分は少ないと思います。加えて、貴校は学校としての方針が明確なので、その方針に沿った変化ができている。そして、久保田先生から先生方に対して上手に権限委譲されているので実行のスピードが速い。そこが受験生を惹きつけているのでしょうね。

    久保田前校長固定観念にとらわれない柔軟な発想。「穎明館はこうあらねばならない」という確固としたものは無いんですよ。毎年、生徒や周辺の変化に応じて変わっていけばいい。すべての発想が生徒を基点としていれば、大きくぶれることは無いと思っています。

    小嶋生徒さんたちや時代の変化によって貴校は今後どのように変わっていくのでしょうか。その変化を楽しみにしています。ありがとうございました。